「道成寺」とは能楽師の卒業試験と言われ、「道成寺」を演じて初めて、一人前の能楽師と呼ばれます。能楽師を志した者は、誰もが「道成寺」を演じることを目標に修業を積みます。
誰もが通らなければならない登竜門ではありますが普通、「道成寺」は一生のうちに一度しか勤めません。二度演じる者は少なく、三度以上演じる人はそれなりの立場の能楽師に限られます。
私にとって一世一代の大舞台は、幸運なことに所属しております、観世九皐会100周年記念特別公演という百年に一度の慶事の年に巡り合わせ、無事に勤め終えました。
全身全霊をかけて臨んだ「道成寺」の、当日を振り返ってみたいと思います。
装束付けは、ギリギリでした。
何せもう一番の能は「摂待」という人数物です。楽屋には私しかおりません。一人で粛々と装束の準備を行い、「摂待」が終わるや否や、鐘の中の仕込みを行って、慌しく装束を着けていただきました。
囃子方がお調べをしている時、まだ装束を着けていました。さすがに少し焦りましたが、開演してからシテの出まで随分時間があるので、その間にすっかり気持は落ち着きました。
あまり早くから装束着けてスタンバイしていたら、かえっていろいろ考えて硬くなっていたかもしれません。
いよいよ、シテの幕が開きました。
申合で、橋掛かりの歩みが遅いと言われていたので、こころもちスラスラ運ぶ予定だったのですが、何故だか足が前に出て行きません。
何だか、自分であって自分でないような不思議な感覚でした。
後で聞くと、橋掛かりの歩みはゆっくりだったけど、囃子や雰囲気に合ったとても良い風情だったそうです。
足が前に出ていかないのは、緊張のせいかと思っていましたが、今になって考えると、何か大きな力に運んでもらったような感覚です。
次第・道行と、舞台は進んでいきます。
物着で烏帽子をつける時、申合の時はもうこの時点でクタクタでした。
それから思うと、力がみなぎって充実しているのが感じられます。
「よし、これからノンストップだ」